祖母が残した、戦争の記憶:東京大空襲と広島の原爆

スポンサーリンク
ひまわり ©のびー / PIXTA(ピクスタ)ライフスタイル
※この記事は約 3 分で読めます。

母方の祖母は、築地の棟梁の三男坊だった15歳年上の祖父と結婚し、四人目の子供がお腹にいるとき東京大空襲に遭いました。疎開先の山口県では広島の原爆も体感します。一番上の私の母が、七歳ぐらいのときです。

そんな祖母の戦争体験を紹介します。

スポンサーリンク

1.「B29の空襲で3月10日に焼け出されたこと」

「私の家は、東京の日本橋浜町にありました。道の向かい側が浜町小学校です。その地下室が隣組(町会)で定めた避難場所で、その日、家が焼ける火に追われて皆が逃げ込みました。

しかし、中はヨタヨタの人ばかりで、また真っ暗で恐ろしく、家族(大人3人、子供3人)で地下室を出ることにしたのです。周りは火の海で真っ赤です。学校の垂直な壁に、黄色く焼けた猫が上がっておりました。

燃えていました。空には、まだB29が飛んでいました。低空飛行のプロペラの音がガラガラと響き、今でもその音は忘れられません。

近くに新聞社の印刷工場があったとかで、印刷に使う紙なのか、家の大きさくらいあるトイレットペーパー状の塊が次々に流れています。それに焼夷弾の火がつき、燃えながら岸や橋桁に着き、川を流れていきました。

火を避けるため浅瀬に入って水に浸かっていた人は、ほとんど焼け死んで川の中を流れていったそうです。家々の前にあった防火用水(今のゴミバケツのようなもの)の中に入って、顔だけ出していた人も焼け死んだそうです。

家族で逃げていく道には、棒のようになった黒焦げ死体や、小さい子供を胸に抱いて、うつ伏せになって焼けている死体もありました。

大勢の人が浜町公園に集まりました。知らない人々が集まり、その頃貴重だったお米や芋やその他のものを持ち寄り、たくあんや福神漬けを分け合って、おにぎりで無事を喜びました。

一生懸命で、ただ生きることしか考えられませんでした。でも、近くの劇場の吹きだまりで、たくさんの人がひとかたまりになって死んでいました。

私どもは、浜町から赤坂まで裸足で歩き始めました。名前も知らない親切な人が、下駄や草履でくださったのを、今でも忘れられず嬉しく懐かしく思い出します」

2.「疎開」

「東京が焼け野原のようになり、私の実家のある山口県の柳井に行くことになりました。東京駅には、食料や衣類を持った人が、大勢汽車に乗るのを待っています。

忘れられないのは、その頃、大層貴重だった醤油がなんとか手に入り、大事に持っておりました。けれど大勢の人ですので、気付かないうちに瓶が壊れ、カラになっていたのです。あのときの悔しさは忘れられません。

当時、私のお腹には子供がおり、栄養剤の「エビオス」を持っていました。妊婦にはほしいものでしたが、疎開先ではなかなか手に入らないらしく、200粒のガラス瓶を白米一斗(約15㎏)と交換してくれました。

その頃のお米は「五分づき米」だったので、お米が黄色く見えました。糠を取るとそれだけで分量が減ってしまうのです。主食はお米5分の1くらいに、麦、粟、ひえ、豆類、カボチャ、芋、野菜などを入れました。

カボチャだけ、芋だけということもあり、白米だけでいたただくことはありません。それでも茶粥、芋粥、小豆粥、粟粥など、ぜいたくな食べ物でした。

牛肉類は食べた覚えがありません。卵は家の鶏から、魚は瀬戸内海を控えておりますので、細々ながら生きの良い物が手に入りました。統制があるために公に売ることは出来ませんが、その頃の習いで、中年のおばさんが乳母車の底板の下に少しの魚を入れて運んでくれたのです。とても貴重な食料でした。

水道はなく井戸水で、洗濯は川です。昔話のようですが、お洗濯は川で楽しい時間です。空襲の合間を縫って近所の方々と慰め合い、でも愚痴はあまりなかったような気がします。「お国のため」……と、我慢がまんの気持ちでしたから。

砂糖や塩、醤油、味噌なども配給制で、少ないのには困りました。あの頃の生活は、今考えると悪夢としか考えられません」

3.「田舎へお米を買いに行く」

「配給制ですので、食料が足りません。そこで、主人と二人で食料を分けてもらいに行きました。

2里半(約10㎞)の山道を、白足袋に藁草履ばきで、自転車の後ろにつけて荷物を運ぶ三輪車(リヤカー)を引いていきます。私は背中に生まれたばかりの子供を背負っていました。東京の銀座生まれの主人は、そんな状況でも、初めての田舎道が珍しく楽しそうでした。

目指す先は倒れそうな藁屋根の家で、子供達が裸足で遊んでいました。私たちが着くと早速大きな釜でさつま芋を蒸かしてくれ、その後久しぶりにお米のおにぎりをいただくことができました。

私の藁草履がすり切れおりましたので、家の人が新しいものと取り替えてくれました。帰るときにお米、野菜、薪をいただき、物々交換で着物、下着類、薬(メンソレータム)をお礼に差し上げました。

裕福な家ではありませんでしたが、いろいろと心を配って下さり、皆が親切で、今でも忘れられない思い出です。帰りは、背中の子供の重さや足の痛みも忘れて、嬉しさ一杯でした。

けれど帰る途中がまた大変で、車が壊れて動かなくなり、主人と一緒に、荷物を抱えて川にかかる板の一本橋を渡りました。そのときは荷物の重さを感じなかったです。

ようやく家に帰ったときは、我ながらよくあんな力があったものだと思いました。今では考えられませんが、嬉しかった思い出です」

4.「8月6日、広島に原爆が落ちました」

「その日の2,3日位前に、ピンクの葉書ぐらいの大きさの、上質な紙がヒラヒラ空から落ちてきました。当時、上質な紙は珍しかったので、大事に持ち帰ったのです。

「新しい爆弾を落とすので、広島には近寄らないでください」

というような意味のことが書いてありました。その頃の私たちの精神状態では、何のことかわかりません。今思うと、米軍の忠告だったのでしょう。

また、アルミホイルをじゃばら型にした物が、空からたくさん落ちてきました。これも何かの注意かと思ったら、あとから電波の妨害のためだったらしいと聞きました。

私たちが当時住んでいた柳井から広島まで70㎞ぐらい離れていますが、その瞬間、身体が揺れるほど大きな音がして、日蝕になったときのように真っ暗になりました。地球がどうかなったのではないかと不安で、そのときの気持ちは今でも忘れられません。

何時間か経ち、空は元通りに晴れ、アメリカのB29がきらきら光りながら、川の中を鮎が泳いでいるかのように何機も飛んでいきました。

そのときは広島が空襲されたと聞きました。原爆とわかったのは、10日ぐらい経ってからのことでした。

当時、多くの人たちが「勤労動員」で広島に行き、中学生、女学生は勤労奉仕として工場などで働いておりました。

私が住んでいた山口県からも大勢出かけていたため、原爆が落ちた翌日からは「でかけないように」という連絡が廻ったのですが、誰も聞き入れません。車がなく、汽車も通っていないので、歩いて行ったそうです。

行った人から聞いた話では、光を浴びた者は皆焼けただれ、人の顔も定かではなく、ただ「水をください」「助けて」「お母さん」と言いながら至る所に倒れており、歩いていると足や身体にすがりついてきたそうです。

人間の身体をしていない、まるで棒きれのような人たちでいっぱいでした。自分の子供を探しに行った人も、何も出来ません。

私たちは日本がなくなるのではないかと思いました。お医者様も地方から動員されましたが、薬があまりなく、消毒もできず、手の施しようのない有様だったそうです。

広島に見舞いに行った人の話では、切り傷がすぐ化膿し、包帯してもハエの蛆がうようよ出てくるのだそうです。小さな傷でも、広島では皆そんな状態でした。薬も効きません。原爆の傷は、普通の傷と違いました。

私の友人も、大勢広島に行っていたため、亡くなりました。知人は家の中にいたそうですが、若いのに髪が真っ白になり、抜け落ちていました。

また、広島の別の場所では、燃え上がった大木に何度水を掛けても再び燃えだし、1ヶ月ぐらい煙っていたそうです。

今思うことは、当時は大人子供にかかわらず、今のように個人主義ではありません。日本中が、ただ一筋に「お国のため」と生きていました。

そして家族を守り、日々成すべき事に一生懸命でした。今は「お国のため」が良いとは思いませんが、それでみなが互いに助け合い、食べ物を分かち合い、生き延びたのだと思います。

これからも人間として、あの頃のことを忘れずに生きていきたいと思います」

5.祖母のこと

2012年に、98歳で亡くなった母方の祖母は、とてもオシャレな人でした。

私が幼かった頃は草月流の華道師範としてお弟子さんを抱え、鎌倉の家で教室を開催。それを辞めたら鎌倉彫にはまってタンスまで作る。

長男がアメリカで会社を興せば、自分でビザを取って遊びに行き、歳をとって趣味をやめてからはカルチャーセンター通いで源氏物語を読破。70代でも“鎌倉夫人”の一人として、ワイドショーにちょっと出たりと、とにかくエピソードの絶えないおばあちゃまでした。

そんな祖母が、同居していた小学生の従姉妹の夏休みの宿題で戦争体験を聞かれたといって従姉妹の原稿を見せてくれました。今回、従姉妹にきいたら、1995年前後のことで、祖母が80歳前後だったと思います。

当時すでにライターとして仕事をいただいていた私は、その内容に驚いて(テキストとして残しておきたいな)と思い、祖母に相談しました。祖母はとても喜んでくれたので、少し追加で話を聞き、印刷して残しておいたのです。

それきり、しまいこんでいた原稿が出てきました。この年齢だからこそ、平和を守る大切さや祖母の生き様を、今までになく感じるところがあります。

ライフスタイル
スポンサーリンク
この記事を書いた人
瀬津 由紀子

1963年東京生まれ。家業である古美術商・瀬津雅陶堂を手伝う傍ら、フリーライターとして活動。講談社、世界文化社の婦人誌を中心にインタビュー、アート、旅行などの取材、ライティングを行う。
2000年より株式会社オフィス・アイシス代表取締役。「エイルナビ」編集長

瀬津 由紀子をフォローする
エイルナビ