身内ごとですが、今日で父が亡くなって20年たちました。時間が経つことの速さに、少しびっくりしています。
父は、私が1歳か2歳の時脳溢血になり、開頭手術を受けたことがありました。母の介護とリハビリで日常生活を取り戻してからも、本来なら禁煙、禁酒を医師から言われていたのに、喫煙(葉巻やパイプに至るまで)、毎晩のように銀座通いが止まず、母ともめることも度々。
私が大学生になってからも、やんちゃが治まらなかった父に意見してみたら、「俺は頭を開いたときに死んだから、今は余生だ。いいんだよ」って。どれだけ長い余生かと思いました。
まあ、思い起こせば、石原裕次郎の同世代の太陽族で、どちらかというと勝新太郎さんぽいところもあったやんちゃな父だったので、62歳という若さだったのが信じられないくらい、太く短く生き抜いたと思います。
晩年の数年はほとんど意識もない状態でしたし、バブルの盛りにバリバリ仕事をしていたので、亡くなった後にバブル崩壊後の不況に突入したとき、「お父さん、今生きてたら絶えられないだろうね」と母と安堵したぐらいです。
そんな父から教わったことで、一番染み付いていることは「空気を感じる」ということ。美術品だけでなく、場所に関しても、よく空気を感じろと言われていました。
理屈ではなく、空気。たとえば私の場合、仏教美術とモダンアートが好きなのですが、本物をたくさん見ていくと、仏教美術では時代とか出自のお寺を感じたり、モダンアートだと作品から作家を予測できたり(これは両親と美術館行ったときに遊びでやってましたが、母は特によく当てました)ということがありました。
今、新型コロナ流行でソーシャルディスタンスが注目される状況の中、改めて父の言葉を思いだしています。
ちなみにこの写真は亡くなってから出てきたのですが、毎年誰にも知られずに写真館に通って撮っていたよう。遺影用のつもりだったかもしれませんが、おすまし写真が何枚も出てきて母はちょっと呆れてました。
近況:九州地方の豪雨で、直接被害はありませんでしたが、低気圧で体調がダウン。知らない間に7月が半分終わっていて焦ってます。